2007年8月31日金曜日

日本のマラリア

 温暖化が進めばやがて日本の半分は亜熱帯気候に属することになり、マラリアが流行するといわれている。しかし衛生環境が良ければ大流行するということはないだろう。そもそも1987年まで日本には土着のマラリアがいたのだ。


 マラリアの感染者は世界中で3~5億人、毎年、約100万人が死亡すると推定され、世界的健康問題であるといわれている。人に感染するマラリアの原虫には、三日熱マラリア原虫、熱帯熱マラリア原虫、四日熱マラリア原虫と卵型マラリア原虫の4種類がある。ハマダラカ属の蚊に吸血されることによって感染する。マラリア原虫を持つ蚊に吸血され、人の体内でマラリア原虫が侵入してから発症するまでの期間(潜伏期)は熱帯熱マラリアで12日前後、四日熱マラリアは30日、三日熱マラリアと卵型マラリアでは14 日程度と報告されている。

 一定の潜伏期間の後、悪寒、震えと共に体温が上昇し、1~2時間続く。その後、悪寒は消えるが、体温は更に上昇し、顔面紅潮、呼吸切迫、結膜充血、嘔吐、頭痛、筋肉痛などが起こり、これが4~5時間続くと発汗と共に解熱する。これを熱発作と呼ぶ。この熱発作の間隔は、感染するマラリアの種類によって異なり、四日熱マラリアは72時間、三日熱、卵型マラリアは48時間ごとに起こるが、感染初期では発熱が持続する傾向が多いようだ。

 一般に熱帯熱マラリアは、他のマラリアと異なり高熱が持続する傾向があり、平熱まで下がることはほとんどない。また、症状も重く治療が遅れると意識障害、腎不全などを起こし、死亡することもまれではない。


 マラリアは 媒介蚊がいれば,熱帯のみならず温帯・亜寒帯地域でも近代までまん延していた。今では完全な輸入病となっているが,その昔,日本は名だたるマラリア浸淫地であり、札幌や釧路でも終戦直後までマラリア患者が普通にいた。
 日本のマラリアは奈良時代の大宝律令の医疾令に瘧(おこり)の名前ではじめて紹介され,平安時代の『和名類聚抄』には瘧にエヤミとワラハヤミの2つの訓でている。つまり,奈良時代以前にマラリアはすでに日本に定着していたとおもわれる。
 安土桃山時代の山科言経が大阪で開業したとき,患者の7%が瘧であったそうだ。これは19世紀中頃のロンドン病院のマラリアとほぼ同じ値である。瘧は藤原定家の日記『明月記』や定家の息子為家の後妻である阿仏尼が書いた『十六夜日記』でも,また安土桃山時代に奈良で書かれた『多聞院日記』でも頻繁にでてくる。なお、平清盛の死因がマラリアとの説があるが、これはどうも違うらしい。
 江戸時代には瘧はそれほど重要視されていない。おそらく,開発が進んで沼沢地が減ったこと,漢方薬治療が盛んになったことによるのではないかといわれている。
 それでも,1903年(明36)には年間20万人の罹患者と1,000人を超える死亡者があったと推定されている。終戦直前,日本軍によって八重山諸島民が「経験的に熱帯熱マラリアを恐れて入らなかった」地域に強制疎開させられ,約3,000人がマラリアで死亡した。この犠牲者を供養する慰霊碑が石垣市のバンナ公園に建立されている。
 琵琶湖をかかえる滋賀県は本土で最も流行度が高かった県で,1948年(昭23)には全国のマラリア患者の4,953人のうち2,259人が記録されている。彦根市には1978年(昭53)までに流行が定着していた。
 第2次世界大戦直後の外地帰還者によるマラリアの輸入があり患者数は全国的に増えたが,媒介蚊退治と徹底した患者の治療が効を奏し,土着マラリアは1987年(昭62)以降認められていない。

 輸入マラリアの国内での報告数は、1999年4月以前の伝染病予防法での届出によると、1990年代には年間 50~80人で推移していた。しかし、感染症法施行以降の報告数は増加し、1999年(4~12月) には112例、2000年1~12月には154例に達した。しかしその後、2001年は109例、2002年は83 例、2003年は78例と減少している。

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