2007年8月14日火曜日

ブルックナーという人

ブルックナーという人は単に変人というだけではすまないものをもっていたようだ。

 コリン・ウイルソン氏はブルックナーに関して面白いことを云っている「彼は不思議なほど不幸な男で、いわゆるチャーリー・チャップリン的人間であったことがわかる。大工が椅子の上から落とすペンキ缶は決まってこういう男にふりかかるのだ」

 ブルックナーは敬虔なカトリック信者であり、オルガン奏者で即興演奏の天才であり、大酒飲みであった。服装にはまったく無頓着で、左足は尖がった靴で右足は先の丸い靴を履いていたという。学校で音楽を教えていた時、授業中でも教会の鐘が鳴ると授業を中断し、その鐘がキンコンと鳴る方向にひざまずいて、お辞儀を始めるのだった。あまりにそれがひどいものだから、評判が悪くなって、女学校をクビになってしまった。

 ブルックナーは自分に極めて自信がない男だった。彼の交響曲は当時の観客の好みに合わず初演が不評に終わることが多かった。そのため彼は曲を発表する度に書き直している。それも手直し程度のものではない。殆ど全く作り直しといってよい。かくして同じ曲でありながら複数の楽譜が存在するというややこしい事態が生じる。これも自分の作風、音楽そのものに自信をもつことができなかったブルックナーの性格が原因である。
 ブルックナーの自信のなさは私生活でも出ている。彼は女性遍歴らしいものが殆どなく女性とまともに会話することすらできなかったようである。いわゆるロリコンであったといわれている。ブルックナーは生涯に何度も十代後半から二十代初めの女性に求婚しているが、1886年には21歳のマリー・デマールに求婚して断られている。この後も若い娘に求婚しては断られるということを晩年の1894年まで繰り返していた。学校で生徒の女の子に「あたしの大好きなかわいこちゃん」と気軽に呼びかけたのを、隣の女教員に告発されて大騒ぎになったこともある。演奏会で気に入った女性を見つけると必ず声をかけてしつこく住所を尋ねたり、教会の前を若い女性が通るとこれまた必ず声をかけたりした。結局彼は生涯独身を通した(独身に終わった)。
   
 1867年に数字に対するこだわりが増えて、集合したものや並んでいるものの数を数えずにはおられないという強迫症状が生じている。真珠のネックレスをした婦人が近づいてきた際に「これ以上あなたが近づくと私はその真珠の数を数えなければならない」と警告を発した。

 1881年にブルックナーの住まいの向こう側にあったリング劇場が火災にあった。この時から火災への恐怖も目立つようになったが、同時にブルックナーは、死体を見に行くという、死への異常な関心を示す行動もとっていた。ウィーンの中央墓地の移転に際してベートーヴェンの墓が掘り起こされる時、死体を一目見ようと作業に立ち会った。死刑囚の裁判をみるのが大好きで、飽きずにずっと見に行っていた。しかし、ついに最後死刑判決が出てしまうと、死刑囚のために一晩中お祈りをひたすら続けたのである。

 ブルックナーは深い信仰、謙虚さと、官能という相容れないものが同居した野人、「才能のない天才」といわれている。

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