2008年9月25日木曜日

驕るな、爆笑問題

 「爆笑問題」の太田夫妻と田中氏の3人が橋下知事との個人的なつながりから大阪府に1000万円を寄付したという。

 「爆笑問題」は人気者であり、儲けているのは誰でも分かっているが、こうあからさまに見せつけられると良い気分はしない。言うまでもないことだが、「爆笑問題」が蓄財できたのも全国のファンのおかげだろう。それが知事との交友関係で全国の自治体の中で大阪府だけに寄付する。これがたとえば「国境なき医師団」に寄付したというなら、えらいじゃないかと思うところだが、なんで大阪府だけに寄付するの。大阪府よりも困っている自治体はまだあるだろう。

 橋下知事と交友関係があるというだけで、ぽんと1000万円出してしまうというのは「爆笑問題」の驕りではないのか。

 「爆笑問題」の終わりの始まりかも知れないぞ。

2008年9月23日火曜日

ラビ・バトラ

 日本はひどい不況に入りかけているが、さらに追い討ちをかけるように米国の金融危機が発生した。

 サブプライムローンによる米国の金融危機を予測していた人は少なくないようだが、30年前に予測したラビ・バトラという人がいる。

 ラバ・バトラはインド生まれの経済学者で、現在米国のサザン・メソジスト大学の教授である。この人は瞑想によって未来の「予測」を獲得するという。かつてイグノーベル賞も受賞している。これだけ聞くといわゆる「トンデモ」系の学者ではないかと思ってしまう。

 だが、ラバ・バトラは世界の貧困をなくすことを目標としており、弱肉強食でマネーゲームと化し、大きな経済格差を有む現在の米国型の資本主義を厳しく批判している。こういう点では共感できる。
 これまで、イラン革命やイラン・イラク戦争などの予測を的中させているが、もっともとんでもない予測は1978年に発表した2000年までに共産主義は崩壊し、2010年前後までに資本主義も崩壊するという予測であろう。しかし共産主義の崩壊はソ連の崩壊ということで的中した。そして資本主義の崩壊も今の米国をみていると的中するかも知れない。もっとも彼のいう資本主義は現在の米国型の資本主義のようで、1950年から1975年頃までの日本の資本主義は健全だとして評価している。

 共産主義も資本主義も崩壊したらいったいどうなるのかということになるが、彼は資本主義と社会主義のいいところを組み合わせた「経済民主主義政策」という経済システムが日本から生まれるとしている。その「経済民主主義政策」の目標は1.高い賃金、2.低い税金、3.広くて安い持ち家、4.適正な物価、5.充実した福祉、6.継続性のある環境保護ということだそうだ。

 しかし、彼が理想とする経済システムは「経済民主主義政策」という造語を持ち出さなくても、「社会民主主義」ということでよいのではないだろうか。米国型資本主義の崩壊は当たるかも知れないが、日本から理想的な経済システムが生まれるという予測は当たるとは思えない。ラビ・バトラは理想主義者で共鳴できる点もあるが、やはり「トンデモ」系の学者のようだ。

 それにしても米国は今後どうなるのか、米国は製造業を放棄して、金融で儲ける国になっている。その金融がだめになれば、ただの農業国家である。数十年先にはブラジルに追いつかれて、アメリカと言えば南米諸国を指すようになるのかも知れない。

2008年9月20日土曜日

マノン

 マノンは、カルメンやルルのような男を破滅させる悪女だと思っていた。
 カルメンは強い性格の持ち主である。ルルは常に何かに怯えている神経症的な女だが、したたかに生きようとしている(殺人を犯してでも)。
 だが、マノンは強い女ではない。男を虜にするという点では他の二人と同じだが、思慮が足りなく、享楽的な生活が好きなだけの悪女とは言えない弱い女である。三人とも悲劇的な最後を遂げる。
 カルメンはあくまでも強く自分の意思を貫き、殺される。ルルはロンドンまで逃げのびて、切り裂きジャックに殺される。マノンはボロボロになって病死する。三人の中で一番哀れな最後である。

 ネトレプコの「マノン」のDVDを観たが、美しく着飾っているネトレプコよりも、最後のやつれ果てて汚い衣装をまとったネトレプコの方が魅力的であった。

2008年9月15日月曜日

木曜日だった男

 これは寓話なのだろう。

 作者のG.K.チェスタトン(1874-1936)は推理小説の「ブラウン神父」シリーズで有名である。チェスタトンは真摯なカトリック教徒であり、「分配主義」という思想を抱いていたらしい。「分配主義」とは、国家の財産と土地を人民に平等に分配し、自由な小農民、商店主、職人などが地産地消の社会を営むことを理想とする考えだとのこと。

 「ブラウン神父」は推理小説の形式で作者の世界観を語っている小説であり、娯楽小説としての推理小説とは異なっている。だから、やや難解である。彼の「詩人と狂人たち」も同様の小説であるが、さらに難解で読み通すのが少々つらいところがあった。

 「木曜日だった男」は無政府主義者の秘密結社に刑事がスパイとして潜入し、中央委員に選出される。その中央委員会は7人で構成され、それぞれ曜日で呼ばれる。議長は日曜日であり、主人公の刑事は木曜日と呼ばれる。
 読み始める前は難解な小説ではないかと警戒したが、平易で文章であり、ユーモラスな明るさもあり、すらすらテンポ良く読めた。きっと結末は無政府主義者の秘密結社ではなく、何かの無害な組織だったということになるのだろうと思った。
 主人公は彼らが計画している暗殺計画を阻止するために行動し、その過程で中央委員会のメンバーが次々に警察のスパイであることが分かる。とうとう日曜日以外はすべてスパイだったということが分かるのだが、そのあたりからこの小説は徐々にリアルさを失い、ドタバタ調の追跡劇になる。追跡していた刑事たちが追跡されて逃げ回る。そして、今度は刑事たちが日曜日を追いかける。日曜日の追跡になると、もう完全に現実の世界でなくなる。最後は日曜日の屋敷での仮装舞踏会だが、日曜日が何者であるかは分からないまま終わる。

 文庫本の帯には「探偵小説にして黙示録」とあるが、この小説は「黙示録」かも知れないが「探偵小説」ではない。