2008年1月27日日曜日

バティスの「悲愴」

 ブラームスをからっと明るく演奏して一部のブラームス・ファンの怒りをかったエンリケ・バティスだが、同じく悲哀系のチャイコフスキーの演奏はどうなのか。

 チャイコフスキーの交響曲6番「悲愴」を聴いた。これがなかなか良いのである。なぜブラームスはだめでチャイコフスキーは良いのか。
 悲哀系といってもブラームスは地味でじめじめしている。あくまでも内にこもっている。一方チャイコフスキーは派手なのである。大泣きしている。 
 私にとってチャイコフスキーはちょっとやりすぎのように感じてにがてだった。
だが、バティスのようなからっとした演奏ならばしつこくなくて聴ける。

 まあ、いろいろ相性はあるものですな。

2008年1月14日月曜日

ニューイヤーコンサート


 上の写真はデジカメの美術館モード(フラッシュなし、シャッター音なし)で撮ったので、周りには迷惑をかけていないが、もちろんコンサート中に写真撮影をするのはマナー違反です。
 今日はオーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤーコンサートに行った。指揮は井上道義さん、ゲストはソプラノ歌手の森麻季さん。ニューイヤーコンサートというのはシュトラウス・ファミリーなどのワルツが中心になる。どうしてそういうことになっているのかは知らない。正直、曲目には興味がなかったが、オーケストラ・アンサンブル金沢を聴いてみたかったのと、森麻季の歌を聴きたかったので行ってみた。オーケストラ・アンサンブル金沢は小編成なので、管楽器は鳴るが、弦楽器がうすい感じがした。井上さんは相変わらずトークが楽しい。
 森麻季はこのコンサートで良かったらCDを買おうと思っていた。最初の歌のムゼッタのワルツを聴いて、二階の私の席まで声が通らないと感じた。その歌が終わったとき、「この人の声にはこのホールは大きすぎるのです」と井上さんからのフォローがあった。確かにそうだと思う。もう一回り小さいホールであれば実力を十分発揮できたのだろう。アンコールで歌ったオペレッタ「こうもり」の中の歌はなかなか良いと思ったが、CDは買わないことにした。
 アンコールに、ふつうニューイヤーコンサートではやらないショスタコーヴィチを演奏したのが井上さんらしかった。ジャズ組曲IIのポルカであった。
 最後はお決まりのラデツキー行進曲で終了となった。

2008年1月12日土曜日

未聴のCD

 ボックスセットが2箱届いたということもあって、封を切っていないCDが40枚になっている。 バッハの教会カンタータ全集60CDやスカルラッティのチェンバロ・ソナタ集34CD、カイルベルト指揮のワーグナーのリング14CDなど、封は切ったが全部は聴いていないものもあるので、未聴のCDは100枚を超える。

 それでも欲しいCDが出てきて注文してしまう。これは買うことによってストレスを解消しているのであろう。まあ、不要なものを買っているわけでもないし、生活が破綻するほど買っているわけでもない。それに未聴のCDがたくさんあるというのは何千枚ものCDやレコードを持っている人にはめずらしくないようだ。ということで、私は買い物依存症という病気になっているわけではないと言える。

2008年1月5日土曜日

ロック野郎

 歳をとってもロックを聴き続けている「ロック野郎」といわれる人たちがいる。素直にすごいと思う。私はもうロックはだめだなあ。高校生の頃は夢中で聴いていたが、今はめったに聴くことがない。今日はそのめったにない日だ。

 どういうわけか、クラシックを聴く気がしなくて、ロックを聴いている。まず、ピンク・フロイドの「the dark side of the moon」、プログレッシブ・ロックという範疇に入る。
 昔はプログレッシブ・ロックというのは進歩的で芸術性も高いのだと信じて、よく分からないまま聴いていた。このプログレという音楽、今聴くと小賢しい小手先の音楽のように聴こえるものが多い。尖がっているようで実はぜんぜん尖がっていないのだ。
 ピンク・フロイドの名盤とされるこのアルバムも途中で聴くのをやめた。次にキング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」、これはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を蹴落としてチャートの一位になった由緒あるアルバムである。やはりプログレの範疇に入る。ピンク・フロイドのアルバムよりも聴ける。だがやはり途中でギブアップ。
 それではこれでどうだ、ヴァン・モリスンの「veedon fleece」。昔はヴァン・モリスンやローリング・ストーンズのようなストレートで濃いロックはにがてだった。でも今聴くとこのストレートさが良い。ああ音楽だなあと感じる。

2008年1月4日金曜日

黄金の10年

 数年前、日本経済新聞は元旦からの連載記事で「これから黄金の10年が始まる」と高らかに日本経済の復活を宣言した。そのとき、随分と違和感を覚えた。あまりに楽観的にすぎるのではないか、これは科学的な分析結果というよりも、日本人に自信を持たせ経済に良い影響を与えようという世論操作ではないかという気持ちを持った。
 そして今年の元旦からの連載記事は「YEN漂流・縮む日本」である。今日、1月4日は「気がつけば途上国」という見出しが躍っている。日本経済新聞は「黄金の10年」説をとなえたことにまず自己批判すべきであろう。

2008年1月3日木曜日

上がらない雨

 中国出身で日本で活躍する40歳代の実業家で宋文洲という人がいる。NIKKEI NETのこの人のコラムが私は好きなのだが、今年について次のように言っている。

 経済が成長しない、政治も安定しない年になるかもしれません。しかし、その中でも人生を楽しむことを覚えてほしいと思います。景気は循環するもの、政治は変化するもの。お天気の変化と同じように捉えれば、余計な心配と落胆は損です。
 眩しい青空と輝くサンシャインもいいですが、暗い雲と降り注ぐ雨もそれほど悪くありません。屋根の下から見る雨中の花や草には晴天にない瑞々しさがあります。仕事を休み、体を癒し、本を読み、ゆっくりと晴れるのを待つのも楽しいものです。
 上がらない雨はありません。雨の後は決まって晴天。貴重な雨、必要な雨。雨の年になったら雨を楽しもうじゃありませんか。

 日本人を慰めてくれているようだ。

 経済アナリストの森永卓郎氏、格差社会ということを最初に言った人で「年収300万円」で流行語大賞をとった人だ。以前から小泉純一郎氏の「構造改革」を厳しく批判していた。
 森永氏によるとこれからの人生のコースは 三つに分かれる、一つめは「勝ち組になろうと思って勝ち組になる」、二つめは「最初からあきらめて負け組みになる」、三つめは「勝ち組をめざしながら負け組みになる」。そして彼は一番みじめなのは三つめであると言っている。勝ち組になろうと思って一生懸命働くのだけれど思ったとおりにならず、定年を迎えたときに残っているのはボロボロになった心と体だけ、こういう人が今、日本で一番多い。森永氏は勝ち組になれるのはほんのわずかな人だけであり、最初から勝ち組になろうを思わなければ、年収300万円でも、人生はそれほどつらいものではない、世間のトレンドとは違っても、自分なりの好きなことを見つけ、その喜びを分かち合える仲間とコミュニケーションを楽しむ、それが一番豊かな人生だと言っている。
 実は森永氏は人生を楽しむ達人であり、その中にB級グッズの蒐集というのがある。ミニカー、グリコのおまけ、指人形、すごろく、コーラやお茶の空き缶、消費者金融のティッシュなど40種類以上のグッズを集めて楽しんでいるそうだ。世間的にはちょっと変わった人ということになる。

 宋氏は上がらない雨はないと言って慰めてくれているが、森永氏が最近「年収120万円時代」という本を出したところをみると、まだ雨は続くようだ。

2008年1月1日火曜日

4つの最後の歌

 大晦日の夜DVDでネトレプコ主演のオペラ「清教徒」を観ていたら、幕間の楽屋でのインタヴュワーがルネ・フレミングだったのびっくりした。人気はネトレプコほどはないとしても、スター歌手でありキャリアからいってもネトレプコよりも格上の人だからだ。

 このフレミングはどういうわけか、日本ではあまり人気がない。「レコード芸術」誌のCD評もフレミングに対して好意的でないことが多いように感じる。

 一方、チェチーリア・バルトリという歌手は日本でも非常に人気があり、音楽評論家からも高く評価されている。2007年12月号の「レコード芸術」にバルトリのインタヴューが掲載された。その中で、好きな歌手と嫌いな歌手という質問に対して、バルトリは「好きでないのがマリア・カラス、歌い方が上品でなく、地声だけで歌っているようで、表現が十分できていないように思う」とカラスファンが怒るようなことを言っている。一方「大好きなのはルネ・フレミング、素晴らしい発声法のテクニックと音楽性を持っている」と絶賛している。さあ、フレミングを貶してバルトリを褒めていた評論家はどうするのかな。

 一夜明けて正月の朝、聴き初めにフレミングの歌うシュトラウスの「4つの最後の歌」が聴きたくなった。でも聴き初めが最後の歌というのもちょっとと思い、まずコリン・デイヴィスのベートーヴェン序曲集を聴いてから、「4つの最後の歌」を聴いた。