2007年10月28日日曜日

天満敦子のコンサート


 天満敦子のソロ・コンサートに行ってきた。
 プログラムは第一部がバッハ:アダージョ、シューベルト:アヴェ・マリア、マスネ:タイスの瞑想曲、アイルランド民謡:ロンドンデリーの歌、イギリス民謡:グリーンスリーヴズ、黒人霊歌:アメイジング・グレイス、バッハ:無伴奏バルティータ3番。第二部は和田薫:無伴奏ヴァイオリンのための譚歌<Ballade>、バッハ:無伴奏パルティータ2番シャコンヌ付、ポルムベスク:望郷のバラード。
 第一部の終わりに10分くらいのトークがあった。以前から思っているのだがクラシックのコンサートも、もっとトークがあっていいと思う(外国人の演奏家の場合は難しいが)。一般的なオーケストラのコンサートは儀式のように無言で序曲、協奏曲、交響曲が演奏されることが多い。指揮者が短くてもいいから観客に語りかけると随分親近感が増す。大植英次のようにそうしている指揮者もいる。井上道義も観客にお礼のことばを述べるらしい(今度聴きに行く予定)。
 バッハの無伴奏はCDでは何人もの演奏家を聴いてきたが、実演は初めてだったので聴けてよかった。
 天満敦子といえば望郷のバラード、望郷のバラードといえば天満敦子といわれるぐらい彼女のトレードマークになっているこの曲、さすがに聴かせますね。
 さて望郷のバラードを演奏した後、アンコールを何で締めくくるのか興味津々だった。アンコールは2曲、1曲目はドヴォルザークのユモレスク、さあ最後の曲は何だろう。まさか、望郷のバラードをもう1回演奏するということはないだろう。実は彼女にはもう1曲必殺ワザがあったのです。演歌「北の宿から」。そうか、この手があったのか。でもこの演奏は良かったぞ。
 天満敦子はバッハより「お涙ちょうだい」系が似合う。

2007年10月22日月曜日

足底筋膜炎

 冠婚葬祭のときは英国のEdward Greenを履くが、出張で長く歩くことが予想される場合は、米国のAldenのダブルソールの靴を履くことが多い。今回もAldenのコードバンで作られた質実剛健といったふうな靴を履いて出張に行ったが、実は2日前から左足底の軽い痛みがあった。
 歩いているうちに徐々に痛みが強くなり、出張から帰るときには左足を引きずるような痛みになってしまった。足底筋膜炎だろう。ウォーキングシューズにすれば良かったのかも知れないが、ここまで悪化するとは予想していなかった。 でも、スーツにウォーキングシューズというのもなんだかなあ。

 一日たってだいぶ痛みは軽くなってきた。

2007年10月21日日曜日

スリッパ

 スリッパという履物が何のために存在しているのか前から疑問に思っていた。調べたところ、語源である「slipper」は「すっと履ける物」という意味で、上履き全般のことを指すが、日本で一般的にスリッパと呼ばれている形状のものは、日本で生まれたものだそうだ。
 開国により西洋人が多く日本に訪れるようになった明治初頭、室内で靴を脱ぐ習慣の無い西洋人が土足で屋内へ入り込む問題が発生し、それを解決するために仕立て職人である徳野利三郎が1907年(1876年という説もある)に発案した上履きが、現在のスリッパの原型であると言われている。当時は、靴の上から履くためのものだった。現在では一般的には、足を汚さないために使用するということらしい。

 足を汚さないためというのは納得できない。ふつうに掃除している家で足が汚れるか。洗濯しないスリッパの方がよほど汚いだろう。足が冷たいために履くというのならば靴下を履けばよい、靴下ではすべるというならば、滑り止めのついた靴下もある。履物を履かないと落ち着かないのならば、デッキシューズを履けばよい。つまずいてこけて、骨折するという危険がうんと減る。

 私はスリッパが嫌いだ。

2007年10月15日月曜日

てなもんや三度笠


 こういうニュースがあった。


 大阪の御堂筋を練り歩く御堂筋パレードが10月14日行われ、かつての人気テレビ番組「てなもんや三度笠」が1日限りの“復活”を果たした。御堂筋完成70周年を記念し、大阪の歴史を振り返るパレードにしようと、主催者側が番組に出演していた藤田まこと(74)と白木みのる(73)に参加を呼びかけたもので、39年ぶりの「あんかけの時次郎」「珍念」コンビの再現に、沿道に集まった約125万人のファンは大歓声。藤田は番組スポンサーだった前田製菓のクラッカーを手に「俺がまだこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」と、名ゼリフを口にし、白木も「こんなにたくさんの人が集まってくれて本当にうれしい」と笑顔を見せた。
 またパレードには、同時期に放送されていた「とんま天狗」の大村崑(75)と芦屋小雁(73)も参加。当時の番組衣装に身を包み、殺陣を披露すると、沿道からは拍手が送られた。



 てなもんや三度笠とくるとスチャラカ社員を連想してしまう。

 スチャラカ社員は1961年4月~1967年4月の放映で、ミヤコ蝶々、横山エンタツ、中田ダイマル・ラケットをはじめ、藤田まこと、白木みのるら、当時の上方人気タレントを総動員して作成された。商社「海山物産」を舞台とするサラリーマン・コメディーで、「ホ~ント、チ~トモ知らなかったワ~」や「ハセく~ん」という流行語が、この番組から生まれた。デビューしたばかりの藤純子(現・富司純子)も出演した。
 一方のてなもんや三度笠は、1962年5月~1968年3月に放映されている。ほぼ同時期で、出演者も重なっている。どうりで連想してしまうはずだ。

 藤純子を富良野で見たことがある。あれはワイン館だったか、作家の倉本聰の案内で藤純子が入ってきたところに遭遇した。テレビのイメージとは違って、背が高く化粧の濃い現代的な美女であった。

 それにしても前田製菓はまだあるのか、昔の友人の元気な知らせを聞いたようでなんだかうれしい。

2007年10月14日日曜日

用心棒日月抄

アマゾンのカスタマーレビュー風に

用心棒日月抄
★★★★
By tockng
 「用心棒日月抄(ようじんぼうじつげつしょう)」は藤沢周平の人気作である。赤穂事件の浅野と吉良方の争いに主人公がまきこまれるのが面白さの要因のひとつであると思う。ただ、どうも今ひとつ納得できないところがある。それは由亀のことである。主人公、青江又八郎は家老の悪だくみを知り、許婚の由亀の父に話す。しかし由亀の父はその一味であり、後ろから切りかかられ反射的に由亀の父を切り脱藩し江戸で用心棒稼業をする。非は由亀の父の側にある。しかし、自分は許婚の父を殺した仇である。家老が送ってくる刺客と死闘を繰り広げながら、又八郎は由亀が仇討ちに来るのを待つ。由亀が来ればおとなしく仇を討たれるつもりでいる。
 で、結局家老と敵対する側の力が強くなり、又八郎は藩に呼び戻される。由亀は又八郎のただ一人の家族である祖母といっしょに暮らしていた。やがて家老は失脚し又八郎は由亀と結ばれてめでたしめでたし、となる。
 由亀には葛藤はないのだろうか、いくら父が死の間際に又八郎を頼れと言ったということにはなっていても、なんだかなあ。由亀はあくまでも仇討ちに行くべきだろう、仇討ちの場でどうしても自分には討てませんと泣き崩れ、主人公と結ばれるという展開(ちょっとくさい展開にはなるが)は考えられなかったのだろうか。
 それと、一時吉良方について動いていた魅力的な小唄の師匠(世を偽る仮の姿であるらしい)、おりんという女の正体が明らかにされないまま終わっている。その後のシリーズでまたおりんを出すつもりだったのかも知れないが、結局2作目にも出てこない。

 元々は月刊誌の連載ものだから、あとからああすればよかったと思っても改変するわけにはいかないだろうけどね。まあ、面白かったからいいか。

2007年10月8日月曜日

幻視

「死んだ夫がときどきそこに座っているんですよ」とその高齢の女性は言った。私が座っている居間に出現するらしい。
「何か、しゃべるんですか」
「いいえ、話しかけても返事はありません。しょうがないからそのままほおっておきます。そうするといつの間にか消えています。めんどくさいことに、夫だけでなく生きている大阪の親戚も出てきて、やはり何もしゃべらず、気がつくと消えています」
 その女性は、自分が見たものが現実にはそこに存在しないはずのものだとしっかり認識している。そのことに対する恐れは持っていないようだった。
 幻視だろう。この時点ではこの人は歳相応の物忘れはあるが、呆けているようにはみえなかった(まあ、見えないはずのものが見えるということに対する恐れがないということは呆けなのかもしれないが)。幻視が認知症の症状として最初に出てきたのだろう。この女性は数年後には完璧な認知症となった。
 見えるということは脳の視覚皮質の処理によるものであり、実際にないものも見えることがあり、実際にあるのに見えないこともある。

2007年10月2日火曜日

火がご馳走

 20年以上前になるが、出向で札幌で働いていたことがある。タクシーの運転手が北海道の昔のことばだと言っておしえたくれた「火がご馳走」。寒い中を訪ねてきた人に対するもてなしは何よりも火で温めてあげるということ。北国でなければ分からないことばである。その時期はプライベートで苦境に陥っていた時期であった。北海道の冬空のように毎日重苦しい気持ちだった。北海道の冬は、永遠に続くのではないか、春は来ないのではないかと思うような厳しさであった。でも時期がくれば雪がとけて春は来た。雪解けの意味が身にしみて分かった。春が来たのがこんなに嬉しかったことはない。私の心の冬もやがて終わりをつげた。「火がご馳走」ということばはいまだに印象に残っている。